以前、ステンレスやセラミック(陶磁器)製のお墓が新聞やテレビで 話題になりましたが、あまり人気がでませんでした。
日本人は「お墓は石で」という感覚が備わっているようです。
その感覚を辿っていくと、古代までさかのぼることができます。
日本では古代から、石を「聖なるもの」として祀った遺跡がいたるところにあります。
たとえば千引石(ちびきいわ)は、日本における最初の墓石と言われています。
「道反の大神」(みちかえしのおおかみ)とも言われ、女神イザナミの死後、彼女がこの世に出てくるのをさえぎって、もと来た黄泉の国へ追い返す役目を果たすべく、イザナギが千人でやっと引き動かす事のできるほどの大きな「千引石」であの世との出入り口を塞いだとされています。
また、イザナミとイザナギが千引石をはさんで「事戸(決別)を渡す」シーンは、現在のお墓参りでの「亡き故人との対話」の原点となっています。
このことは、石がお墓になっていく起源ではないかと考えれます。
縄文時代の遺跡では、道幅15メートルの道の両側に2列に並ぶ約100基の集団土坑墓が発見されました。5千年前の道幅15メートルの道ですから、おそらくは当時のメインストリートであった事と思われます。生活に密着した重要な道の両脇にお墓を作ったという事は、縄文時代からすでに死者を敬い、大切にしていたということになります。
弥生時代の遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、北九州一体に特有の埋葬法である「甕棺」(かめかん)が2千基以上も出土し、2列になった列状墓群がみつかり、古墳時代の原型とみられる墳丘墓が列状墓群の北側にありました。
これらは集落の中にあり、居住区から北側に列状墓群、更に墳丘墓、そして出入り口、そこから道が続いていました。当時の集落の人々も三内丸山遺跡の人々と同様に死者を敬い、大切にしていたと考えられます。
日本には八百万(やおろず)の神々がいますから、自然界のあらゆるものに霊が宿っていますが、石は特別な霊力があると思われたのです。たとえば『古事記』にはスサノヲの命が天照大神(あまてらすおおみかみ)に身の潔白を明かす「誓約(うけい)」のとき、天照大神の八尺(やさか)の勾玉に息を吹きかけると五人の男神が生まれた話があります。つまり勾玉は霊力のある石だったのです。
日本人が古代からお墓を死者の霊魂がやどる依り代の「石」で作るのは、「石」の霊力を信じる伝統があったのです。それは一朝一夕に失われるものではありません。それが二千年の伝統の重みです。
「お墓は石」という日本人の感覚にはこうした神話と歴史の背景があったのです。
古代日本には死者を敬い、大切にする土着の文化が広がっていました。
やがて仏教が伝来し国家仏教として確立するころになると遺体や遺骨は「死穢(しえ)」(けがれたもの)とされ都市部から排除されていきました。続く平安末期から鎌倉時代には浄土思想に基づいて死者を供養する観念が形成されます。この頃、真言宗中興の祖・覚鑁上人(かくばんしょうにん)は密教と浄土の同一性を説き代表作「五輪九字明秘密釈」を書き上げます。この原理・理論から「五輪塔」が生まれました。
江戸時代、徳川幕府がキリシタン禁圧のため、百姓、町人の全てをいずれかのお寺の檀家になることを
強制しました。(宗門人別帳)これ以降、仏教、お寺と日本人の距離が近づきました。
「死」をお寺が葬儀という形で担うようになったのもこれと密接な関係があると言われています。
明治維新以降、国家神道の確立とともに祖先祭祀が道徳的基礎として位置付けられます。明治民法では「家制度」を定着させる為、墳墓(墓地)は祭祀財産として家督相続の特権とされました。これにより、ひとつのお墓に何人も(親類)が入る「家族の墓」が一般的になりました。
明治以前は財力のある商人や武士を除き庶民は山に遺棄したり、河や海に流すのが普通でしたが、伝染病予防法が制定され火葬が普及し始め、やがて墓地(墳墓)は公衆衛生面や都市計画の観点から国家による法的な規制を受けるようになりました。
そして現在の日本では多くの宗教、宗派が存在し、葬送の多様化、核家族化、により「家墓」の存続が難しくなってきました。また、都市部では墓地の不足に伴い土地が高騰しお墓を建てるのが困難になってきています。中には納骨堂への安置、散骨による自然葬など、お墓そのものを拒絶する傾向もあります。
日本人が数千年前の古来より死者を大切にし、お墓に埋葬して供養する。この歴史を振り返り、いま一度お墓の重要性について見直す必要があるかもしれません。